茶道とは「もてなし」と「しつらえ」の美学だといってもよいでしょう。 亭主となった人は、まず露地(茶庭)を清め、茶室の中に、掛物や水指・茶碗・釜などを用意して、 もてなしの準備をします。これらはすべて日本の風土が育んできた文化的な結晶といえるものばかりです。 だから茶道とは「日本的な美の世界」だということができます。そして亭主と客の間に通う人間的なぬくもりが重要な要素となります。
それを「和敬清寂わけいせいじゃく」の精神といいます。









現在は人が人を大切にする時代ではなくなってしまいました。こうした時代に人を敬い、 和みの世界と物事に動じない心を生み出していくのが茶道なのです。茶道とは、世界に誇ることのできる日本の精神文化といえるのではないでしょうか。







茶道の大成者千 利休に対し、ある人が「茶道とは何ですか、教えてください」と尋ねました。 それに対し利休は、「茶は服のよきように点て」「炭は湯のわくように置き」「夏は涼しく冬は暖かに」「花は野にあるように」「刻限は早めに」「降らずとも雨の用意」「相客に心せよ」、この七則がすべてですと答えました。 すると尋ねた人は怒って「そんなことくらいは、三才の赤子でもわかっております」と言いました。 すると利休は「わかっていてもできないのが人間ではないですか。あなたが本当にできるならば、私があなたの弟子になりましょう」と言ったということです。











日本に茶が入ってきたのは平安時代です。最澄や空海が中国(唐)に渡り、日本に戻るときに茶ち帰りましたが、 薬と考えていたにすぎませんでした。その後、鎌倉時代になって臨済宗を伝えた栄西も中国(宋)から茶を持ち帰っていますが、これも薬だと考えていました。 だからこそ栄西は『喫茶養生記』という本を書いているのです。
室町時代になると、金閣を建てた三代将軍足利義満や銀閣を建てた八代将軍義政の時代に中国渡来の美術品を愛玩する唐物趣味の会所の茶が誕生しますが、精神性が重んじられることはありませんでした。


義政の時代に登場した村田珠光(1422-1502)は、唐物道具ばかりでなく、和物といわれる日本製の茶道具をも併せて使用する草庵茶の湯を考案し、 四畳半茶室も創り出しました。そして我慢(わがまま)と我執(自己執着)とを戒めた精神的な茶の世界を考え出したのでした。
この精神を受け継いだのが、 武野紹鷗(1502-1555)であり、さらに哲学的な思考性、美の世界を見極める審美性を加えて草庵茶の湯をわび茶道として大成したのが、千 利休(1522-1591)でした。







千利休居士(1522~1591)は、堺の納屋衆田中与兵衛の子として生まれ、幼名を与四郎と称しました。
祖父は、足利将軍家の同朋衆で千阿弥といい、その名をとり、千姓を名乗ったのです。 居士は、初め東山流の書院茶をくむ北向道陳(きたむきどうちん)に学びましたが、のち紹鴎の弟子となり抛筌斎宗易と名乗ります。 こうして東山流書院茶の珠光、紹鴎の流れをくみ侘び草庵の茶を融合して、茶の湯を道として大成し、茶道盛行の基をつくりました。




利休はまた、桃山時代の一大傑物として重んじられ、豊臣秀吉から三千石の知行をうけましたが、大徳寺に寄進した山門(金毛閣)に、 自像を安置したということや、秀吉との茶の精神的な違い、その他の理由が重なって、秀吉によって切腹を命ぜられ、70歳の命を果てたのでした。 時に天正19年(1591)の2月28日であります。利休の居士号は、秀吉が正親町天皇にお茶を献じた時、勅許によって拝受したものです。




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